アニメの目

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2009夏期
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CANAAN 第13話 「キボウノチ」

EDの最後にはばたいている二羽の鳥はカナンとアルファルドだと信じて疑わなかったし、本編で何度か描かれた鳥も全部この二人だと思ってたんですが、最終話に限って言うと間違いなくカナンとマリアのことですね。

やたらと一羽の鳥が多く描かれていたけど、鳥ならば二羽で連れだって飛ばなくても、一人でどこまでも飛んで行けるだろうということなのかな。自分には直視できないものを見るカナンの強さに憧れて、隣に立って同じ景色を見たいという一心でカナンを追いかけていたマリアですが、同じ景色を見るなんて出来るはずがないということに気付きました。

みのさんの言った「境遇が違いすぎる」というのは何も生まれた国やこれまでの経験のことだけを言っているのではなく、もっと広義で捉えるべきかな。もっと根本的なレベル、感性の違いのこと。

たとえ同じものを見ても全く同じことを感じられるはずはない。特に「共感覚」なんかの特殊なキーワードを含んでいる『CANAAN』に限れば「同じものを見る」という行為についても疑問符を打ちたくなります。そもそも違うものを見てるんじゃないかということ。

同じようにシャムに憧れて、シャムに同じ名前を与えられて、同じような喪失感を味わったはずの二人があれほど決定的に異なったことを感じ、それぞれの道を歩んだように、物事なんて誰の目で見るかによって様々な色・形を示すものでしょう。

カナンには共感覚がある。だからマリアはカナンの隣に立ってカメラを通して同じものを見ようとしてたんだけど、やっぱりそれは無理なことなんですよね。一緒に同じ空を飛び続けるなんてできないわけです。

だからマリアはちゃんと「自分の目」でカナンを見つめて、カナンとは別の道を進むことを決めたんでしょう。カナンにはカナンにしか見えないものがあって、マリアにはマリアにしか見えないものがある。

直視できないほど眩しいもの、刺激の強すぎるものでもちゃんと「自分の目」で見て、自分の感性で処理する。誰かの目を借りてものを見るなんてのは出来るはずがない。と、そういうことなんじゃないかと思いました。

だから「灯ダチ」であってもお互いが見ている世界を照らしてあげることはできない。それでも遠くで自分なり道を歩いている「灯ダチ」がいたら勇気をもらえるものです。それが心で寄り添うってことなのかな。

カナン、マリア、ユンユンは別れてそれぞれの道へ。アルファルドはカナンの隣に立つのは御免だと自分の腕を撃ちちぎって自決。と思いきや生きてまたカナンと何かやりあっているようですね。

同じ世界にいながら全く違うものを見ている人間たちだから、同じ道をずっと一緒に歩き続けることは出来ないけど、でもだからこそ面白いのかな。カナンとアルファルドみたいに絶対に交わらない感性をぶつけ合ったり、カナンとマリアみたいに遠く離れた地でお互いを忘れることなく生活したり。そういうことが出来るからこそ楽しいんだと。

うん。「見る」とか「感覚」とか「友達」とか面白いテーマのアクションでした。

あ、そうだ。カナン=「希望の地」という言葉について少し考えたんだけど、まだ答えは出ていません。強いて言うなら「希望の地」→「希望、後」っていう駄洒落じゃあるまいかと思ったりもしてます。シャム=「光、希望」を失った後の話っていう意味で。タイトルはカタカナだしさ。

……なんだかなぁ。

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◎CANAAN第13話最終話「キボウノチ」 from ぺろぺろキャンディー 2009-11-22

爆弾が爆発して、マリア死亡?カナンはアルファルドをみる。恨みでもなんでもない表情。カナンは乱れない。そして、アルファルドをおいかける。カナンは、マリアは死んでいないという。ユンユンさんがマリアを背負ってあるいてた。そして、マリアは光ではない友達だという...

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