アニメの目

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劇場版 東のエデン I 「The King of Eden」 感想 その2

ふう。さて本編。読んでない人はその1からどうぞ、と言いたいところですが、今読み返すと大したことも書いていないので、別に読んでもらわなくても良いと思います。

その1では本編とは関係なしに、劇場アニメとテレビアニメの違いについて色々考えたわけですが、今回はやっとこさ中身に入ります。

始まった瞬間に「あぁ、これだよこれ!」と心の中で叫んでいました。この絵が『エデン』の絵。それから、咲がタクシーの運転手とうまく喋れずに降ろされてしまったり、トランクの中の武器でパニックになったりする流れも『エデン』らしかったと思います。

そんなふうにスタートした訳だけど、感じたこともほとんどテレビアニメの延長線上にありました。

まず、今回表立って動きを見せたセレソンの目指す「日本像」について。

滝沢は記憶を取り戻し、自分がセレソンだということは理解したものの、まだゲームには復帰できていない感じ。まだ滝沢の目指す日本はよく見えてこない。テレビで最後に依頼した「王様にしてくれ」だけが手がかりです。

ナンバー1、物部氏。やはり彼は暗躍しているようです。次に繋がるような疑問点は「感想 その3」で列挙する予定ですが、とにかく彼は裏でセレソンゲームを操ってるっぽいですね。最後の元総理との電話を聞く限り、彼が目指すのは「一億総他人任せ国家」の脱却。

滝沢と近いものを持っていると思います。滝沢はテレビシリーズの最終話で「王様にしてくれ」と言っていたけど、これも日本国民の行いに対して責任をもてる存在がいないと感じたからでしょう。とすると、滝沢は「俺が王様(責任者)になるからお前ら一億人は安心して好き勝手やってくれ」という形を目指しているようにもとれますよね。

対して物部氏はどうにかして「一億人全員が自分の行い・判断に責任をもって他人任せにしない社会」を目指しているということ、かな。

ナンバー2、ツージー。カッティングエッジな彼の目標は「一億総被害者国家」。んなアホな、と一蹴したくもなりますが、あるひとつのキーワードでこの三人の目指すところを比較すると意外と面白いことに気付きます。

それはニートっていうキーワード。滝沢は見事に二万のニートを並列化し、60発のミサイルから日本を守りました。彼が王様になったら、おそらくニートの自由な発想・発言が認められ、ニートを社会の一部としてはたらく国家になるはず。つまり、ニートのポテンシャルを生かす形。

物部氏の目指す国家像はニート廃絶国家。何もしない、何も言わないニートは排除して、他人任せにしない国民によって国家を運営するのが目標の姿です。

最後にツージーが目指すのは「ニートの座り込み」を利用して日本という国家を貶められるところまで貶めて、国家レベルでの被害者となること。つまり、ニートを認めず、ニートを否定せず、ただ利用するだけ。

こうやって横に並べて比べてみると、本当にそれぞれがそれぞれの考えで行動してるのが分かりますね。他にも、黒羽さんや、吉野映画監督、結城くんは個人的な考えや恨みで動いているようですが、セレソンというのは本当にバラエティに富んだメンバーです。

そうやってバラエティに富んだセレソンを支えるジュイスも随分と個性的に描かれましたね。テレビシリーズでは「受理されました」「受理しました」程度の違いしかなかったのが、この劇場版だとセレソンごとに対応が露骨に違っていました。

滝沢王子を愛するジュイス。物部氏のパートナーであることを誇るジュイス。カッティングエッジなツージーにはカッティングエッジなジュイス。黒羽さんを慕う忠実なジュイス。吉野映画監督と漫才をする態度のでかいジュイス。

ジュイスについてはまだまだ考えが及んでいないなぁと思っているのですが、この辺の「ジュイスの個性」はその思考の糸口になるかもしれないですね。

それから個性といえば、エデンメンバーの個性も面白い描かれ方をしていました。咲が滝沢と再会した後のメール「これから滝沢くんのアパートに行きます」に対してそれぞれの反応の違いが面白かったです。

オネエは興奮。平沢はまるで娘が心配なお父さんみたいに新聞で顔を隠しながら注意。大杉は苦悩。春日はそんな大杉を見て「私たちには関係のないことです」と涙。パンツは「その苦しみの中でもんどり打つのがニート」と提言。それからみっちょんに一蹴される。

ここからも読み取れるのは「個性」という要素です。人が違えば考え方・感じ方は違って当然ということを強く感じました。

さて、話は変わって「滝沢朗は何者なのか」という問題について。

二度目の記憶消去。それでも咲と再会した滝沢は、咲と出会ったときの滝沢と何ら変わりなく、紳士で強引で笑顔が素敵でかっこいい王子様でした。

滝沢朗という個のアイデンティティに記憶は必要ではないのかな。どこにいても、なんて名前でも滝沢は滝沢。

さらに言えば、個人の記憶だけじゃなくて、ネット上の記録がすべて飯沼に変わったとしても、滝沢個人には何ら変化がないと思うんですよね。彼はマイペースに自分の信じる自分を貫くはずです。

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