アニメの目

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2010秋期
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ヨスガノソラ 第12話 「ハルカナソラヘ」

これは爆弾だったんだと思う。それまで分岐ストーリーで描かれた幸せとか悲しみとかが全部、この第12話で爆発する緻密な設計の爆弾。ボーンと爆ぜて、はい終わり。取り残された視聴者は、思い思いにその痕を眺める。終わりかた、最高です。

アニメを見たり映画を見たり小説を読んだりするときに、自分が受容できるコンテンツ量であったかを言い表すのに、僕はよくキャパシティっていう言葉を使うけど、これはちょっと同じ言葉を使えそうにないです。

仮に心なるもので物語を受容しているとしたら、この『ヨスガノソラ』は心の中で弾け飛んだだけで、別になにも残さなかったから、このアニメに大きいキャパシティは必要なさそうです。ただ、インパクトだけが残っています。

悠と穹っていう、お互いに大好きで大好きで仕方ない双子の兄妹の物語があったというだけで、だから「楽しかったか」と問われても「悲しかったか」と問われても、ましてや「感動したか」なんて問われても、うまく答えられない。確かに楽しかったし悲しかったし感動らしいものもしたのかもしれないけれど、どうもそれは「感想」ではないと思うのです。

ただ、繰り返しになるけれど、ものすごいインパクトが残っています。「○○で××だから、結論は△△だよ」なんて単純な思考回路は完全に焦げ付いてしまって使い物になりそうにないです。

フィクションは時にとびきりの爆弾になります。この『ヨスガノソラ』はまさしく爆弾で、見た人の感性をひたすらに灰にするだけのものだったのだと思っています。

さて、こんな抽象的で個人的な意見はここまで。いつも通りにキャラクターの行動を追いかけながら、感想を書きます。頑張ります。頑張ったらきっとまた長い長い文章になってしまうのだろうと思いますが、最後の最後までお付き合いいただけると嬉しいです。いえ、ぜひ、お付き合いください。

本当に全ての要素が穹編のクライマックスに重なった。と、いきなり書いてもなんのことやらサッパリだと思いますが、この「分岐」なるストーリーの構成が最後にうまく実を結んだなと思います。

結局、穹編というのは「穹だけを見る幸せ」を描いたものであって、それまでの瑛編、奈緒編は、言うなればそうでない「穹以外の人と作る幸せ」でした(一葉編を入れなかったのは、一葉編はどちらかと言うと瑛編の布石として機能していて、実のところあそこで描かれた幸せは「予定調和の幸せ」であって、幸せではなかったから)。

おじさんから届いた「別々になら引き取れる」というメールは、つまり悠にとってそういう「普通の幸せ」と「穹と一緒にいること」とを天秤にかけさせるものだったのだけど、悠は最終的には穹を選ぶ。瑛編や奈緒編で悠が掴み取った「幸せ」を視聴者は知っているから、悠がどれだけ穹に焦がれてやまないのかということが、ここで強調される。

例えば奥寺の湖の場所が知りたくて瑛に尋ねようとしたとき、委員長に拒絶されたことを思い出して立ち止まってしまった悠は、そこで瑛とのことを全部思い出しました。それで奥寺の場所、湖の場所が分かってまた走り出したのだけど、悠は瑛ルートで核となる部分を一瞬で思い出し、一瞬でスルーしたのです。

あのとき瑛が読んでいたのって、きっと問題になった出生ノートだったかと思うんだけど、瑛ルートの入り口は開かれているのに、そんなことは少しも気にとめず、悠は穹だけを見ているわけです。

奈緒とは自転車でぶつかりかけて転ぶという、なんだか少しデジャビュなイベント(前は奈緒が膝を擦りむいたのだけど)も、スルー。奈緒編のクライマックスとなったバス停に奈緒が飛び込んでも無人です。

もう少し古い話をすると、奈緒が穹のためにカレーを作りに来るというイベントは穹編にもあったけど、そのときは悠が穹を心配するあまり、奈緒を玄関先で追い返してしまいました。

奈緒編の門戸もいつだって開かれていた(奈緒が必死に開いていた)のに、悠はそれもスルーです。そうやって、穹編では、悠はそれまでに描かれた「幸せ」を掴むきっかけをことごとく無にし、穹に溺れていった(穹と溺れていった)のです。

穹が少しの我慢をして、その代わり誰も傷付かないような「幸せ」が、確かにあり得たのかもしれない。でも、結局最後は、誰がどれだけ傷付いても、自分たちが傷付くことになっても、穹だけの「幸せ」を求めて旅立った。

だって、お互いにあれだけ不安定になって(悠の不安定さだけじゃなく、頑なに「わたしは全然気にしない」と言い続けた穹だってとても不安定だった)、おじさんからのメールの件でケンカしても、同じベッドで寝て、気付けば悠は穹の夢を見ていたらしいし、穹だって悠のほうに寝返りをしているような、どうしようもない兄妹です。

二人とも溺れてしまっていて、本当にどうしようもないのです。だから旅立つ。二人だけで生きていけるような場所を探して、旅立つ。

そんな二人を見る目は様々。二人が去った後の春日野医院を訪れたクラスメイト四人が、思い思いにその周りを回ります。意外とクールな視点でずっと物語を見つめていた亮平は無機質な診察室。悠なしで家族との自己満足的な和解は成ったのか知らないけれど、一葉は人々が集まるはずの応接間を軽くのぞき込む。奈緒は悠の部屋の縁側に、あの縁側に軽く腰掛けて、穹といちばん仲のよかった瑛はボロボロになった穹の部屋を目撃する。

みんな思うことはそれぞれ。ただ、そこに出向いた人たちは、少なくとも悠と穹のことを、なんとか自分なりに理解して解決しようとしています。

そして委員長はここに参加していません。参加せずに「分かりません」と言います。委員長は頑なに理解を拒んでいます。奈緒が「好きって気持ちは止められないから」と言えば、「気持ちさえあればなんでもしていいのか」と問い返します。

委員長の自転車って、鍵がふたつも付いているんですね。あの田舎にして、すごく用心深い。それは彼女の性格をよく表しているものだと思います。委員長は慎重すぎて燃えられなかった人。これは真っ赤な目で悠を責めたときに、ゴミ捨て場の可燃不燃で二人がすっぱり分けられていたからこういう表現を使ったのだけど、悠は自分の感情を燃やして燃やして苦しみながらでも燃やし続けた人で、委員長は自分で自分の感情が燃えるのを抑制した人。

もちろん、どっちがいいとは言わない。それは、どっちがいいとアニメも言っていないからで、あるいは僕自身がその判断を下す論理回路を持っていないから。

ただ、余談になりそうだけど、委員長ルートなんて分岐がなかったことすら、ここで効いてきていると言えます。そもそも発熱しなかった恋です。禁忌と分かりながらもどうすることもできずに溺れた恋を描きながら、そんな委員長の恋も『ヨスガノソラ』では描かれているのです。

だからこそ、爆弾だったと言いたい。ただ物語があって、それが衝撃を与えたというだけのものです。

悠と穹の恋愛の解釈は、登場したキャラクターたちのように様々でいいし、そもそも解釈なんてものを試みなくてもいいと思います。なにかを感じたのは確かで、でもそれはそう簡単に言葉で表せるものはないというのなら、別に言葉にしなくてもいい。

普通の物語が心に豊かさを与えたり、情緒教育的ななにかだったり(まあ、そんなアニメは深夜枠になかなかないけど)する、つまりは視聴者になにかを付加する「プラス」だとすれば、『ヨスガノソラ』は心の一部をえぐり取るような「マイナス」だったのだと感じています。ただえぐるだけ。なにも与えずに、えぐり取った痕だけを残すような物語。ただその痕はずっと残ることになりそうです。

それでも前回の感想で「なんとか自分なりの結論を」と書いてしまった手前、自分でしっくりくる言葉を絞り出しました。苦しみながら幸せを掴もうと頑張る悠と穹は、すごくかっこいい。これは決して答えというわけでなく、間違っても悠や穹の行動を肯定しているつもりもないので、それだけはお断りしておきます。

最後にひと言、すごく面白かった。スタッフさん、ありがとう。最後の最後にもうひと言、『ヨスガノソラ』はエロかったけどエロアニメではない。だって、最終話でセックスをしないエロアニメなんて認められるの? このエロは「必要エロ」だったわけで、胸を張っていいエロなのです。

最後の最後の最後にお礼。放送から一週間以上遅れてアップされるこんな無駄に長い感想記事に、最後までお付き合いくださった人に感謝です。どうもどうも、どうもお疲れ様でした。

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