アニメの目

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2011春期
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あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。 第3話 「めんまを探そうの会」 感想

「めんまの幽霊を探すめんま」というのは、明るく描こうがかなり切ないものがある。逆に、めんまが笑っているだけに、なお辛いところ。

じんたんママの仏壇に手を合わせ、涙するめんま。じんたんは学校で(本当は学校まで辿り着いていないのだけど)、めんまはひとりで留守番。もう死んでしまって、化けて出てもいない死者にめんまは話しかけて、それから涙を流す。涙は自らの白ワンピースにしみを作るばかりで、どこに行っても閉じた自分ひとりの世界です。

はてさて彼女は自分が死んでしまったということをどれだけ理解しているのか。どれだけ理解しようとしていないのか。

もともとそうだったのかは分からないけれど、少なくとも今のめんまはじんたんとスキンシップを欲しがっています(今までの過去の描写においては、めんまがじんたんに体をべったりくっつけるような場面は多くなかったように思う)。体が触れ合うっていうのは間違いなく他のなによりも「生きている」実感を得られるものだと思う。

それから、食べるという行為。ひとりの留守番の時間を潰すためにめんまが選んだのは蒸しパン作り。じんたんママの写真の影響かもしれないけれど、いずれにせよめんまは食べられるものを作ってじんたんを待った。そういえば1話の最初だって、じんたんが作るラーメンを食べたがっていたなあ。

それで、つまりなにが言いたいのかというと、食べるという行為もまた、触れると同様に「生きている」実感を得るためのアクション。めんまは「生きている」と実感できることを欲しているように思える。

だから、明るく無邪気に振る舞ってはいるけれど、やはり死んだという事実に対して、彼女は他に生を幻想させてくれるなにかを得ることでしか対応できない。

「めんまを探そうの会」に関しても、死者が自分の幽霊を探すといういかにも屈折した対応を取るしかない。それも笑って、あくまで楽しく、という態度で。それは無意識的に自分の境遇から目を背けたくなっているからで、「昔みたいにみんな一緒」を他の友達と共有したいから。

めんまはみんなでするノケモンが好き。留守番をしながらひとりでするノケモンはあんまり好きじゃない。やっぱり「みんなで」というのがとても大事。ただ、これがまた彼女を苦しめている。

つまり、「みんな」というのは自分を見ることができない「みんな」だから。「みんな」と一緒にいると、その「みんな」の中に自分がいないことを認識せざるを得ないから。

ワリトバイエルンだけのバーベキューも、カニバイエルンが焦げていくのを見ているしかない。家で、じんたんとふたりならば蒸しパンを一緒に食べられたのだけど、外で、めんまを見られない人のいる前でカニバイエルンを食べるわけにはいかない。そのことをめんまは理解していて、だから、めんまはどうしたって「みんな」の中に入ることはできないと知ってしまっている。

みんなと一緒にいたいけれど、一緒にいると一緒にはいられないことを実感してしまう、という矛盾。このどうしようもない板挟みにあって、その間で絞り出されるのがめんまの涙の正体なのかもしれない。

どうしたって過去に寄り添って生きるしかないじんたんたち(生者)よりも、むしろ過去で時間をストップさせているめんま(死者)のほうが、過去は取り戻せないものであるという認識に深い。もちろん、ぽっぽも本気で死んだめんまも交えてみんなでバーベキューなんて考えていないだろうけれど、そこに死者として参加しているめんまのほうが過ぎ去った時間を強く認識しているのかもしれない。

過去は取り戻せないもの。死者は蘇らないもの。どこをどうしてもそれは思い出に過ぎないですから。

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