アニメの目

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2011春期
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あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。 第8話 「I wonder」 感想

堰を切ったように溢れ出す涙、涙、また涙。ちょっともらい泣きしかけたよ。

みんな傷を負っている、というじんたんのモノローグ。それには救いがなくて、みんな痛みを堪えながら生きている、と。だけど自分にはめんまが見えて、そのめんまが救いになっているから、自分にはめんまの願いを叶える義務がある。

でも、めんまの願いを叶えることはじんたんにとっては痛み。今、目の前にいるめんまがかりそめの平和だったとしても、めんまをもう一度失わなければならないわけで、それはきっとものすごい痛み。じんたんだって充分に傷を抱えて、苦しんできたというのに、またそうやって痛みを引き受ける。

それはめんまも同じ。めんまは、自分がいなくなっても超平和バスターズは超平和バスターズであって欲しかっただけ。でも、例えばバーベキューなんかをして、「みんな」で仲良くしてみて感じるのは、自分が抜けている、自分の居場所はそこにはないということだけ。

これもまた、きっとすごい痛み。めんまも、今の時間に現れて、多くの傷を負った。

それでもめんまは「みんなの平和」を守る。その「みんな」に自分が含まれないことを知りながら、自分が傷を負うことで「みんな」仲良しであることを願う。

正直、じんたんとめんまはこういうところがそっくりだと思う。ゆきあつとしては、じんたんのそういうところが身勝手に見えて、それで殴りたくなるんだろうけど、結局殴れないのは本当に憎んでいるわけではないから。

さて、本間家には生き残った者の姿があります。

めんまママは、自分と娘の世界に入り込んでしまって、悲しみに暮れる毎日。それも、もう5年。じんたんたちの姿は、「今ここにいない娘」の存在を強調させるだけだから、辛くて見ていられない。

めんまは「今ここにいない自分」に傷付きながらも、「ここにいない自分」が守れる平和を考えます。それで自分が傷付くことになったとしても。

めんまママは「今ここにいない娘」に傷付き、「娘がいない平和」を憎みます。それはまるで、自分の傷は自分が引き受けて、めんまの傷をめんまの友達だった5人に押しつけようとしているかのよう。

そんなめんまママに傷付けられるのは、実はじんたん達だけでなく、めんま弟もそう。めんま弟は「ここにいる自分」がいないかのように扱われて、傷付きます。

結局、誰かの痛みや傷は、誰かが肩代わりするしかないというところかもしれない。

ゆきあつのように自分の中で自分の痛みを処理しようと頑張っても暴走するし、じんたんやめんまは誰かのために自分が傷付くことになるし、めんまママは死者を想って今生きている人々を傷付ける。

そういう連鎖が、今回のめんまママに始まる涙の伝染に繋がっている(それで表現されている)のだとも思う。

じんたんの自ら傷付きに行くさま、めんまの痛みを堪えた笑顔、爆発しそうなゆきあつの気持ち、めんまママの当然の痛みと、それによる弟の苦しみ。まるでどこにも救いがないようです。

それでも、じんたんはめんまが見えることが救いだと言うだろうし、めんまも、「みんな」が仲良しならいいと言うだろうと考えると、なんかすごく辛い。

痛みと悲しみがあんまりきれいで、冒頭にも書いたように、ちょっとうるっと来ました。

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