アニメの目

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ヤンデレの確立はならない:我妻由乃に関する覚え書き

ヤンデレ界の最後の刺客とも言われる我妻由乃(『未来日記』)が大変よく暴れています。もともとツンデレとかヤンデレとかいう枠組みは、振り幅が広いためにいろんな《設定》あるいは《状況》にマッチするだけの、汎用的で量産性を保証するアイデアに過ぎないと理解し、ネタとしては楽しみながらも、それ以上のことは考えてきませんでした。

ただ、この由乃っちは少し違うなあというふうに感じていて(現在は第5話まで視聴)、ちょっとヤンデレっていうものを捉え直してみようかな、と思い、考えを簡単に(とは言っても結構長い)書き留めておきます。

ツンデレの功績

ツンデレはヤンデレを説明する際に、よく引き合いに出され、比較されています。あと、クーデレなんてものもあります。が、クーデレが性質上まさしくツンデレに類似しているのに対して、ヤンデレはそもそも根本的に別物だろうというのが、どうも一般的な見解のようです。つまり、好きなのにツンとしちゃう子と、好きだからヤンでしまう子なのだから、全然違う、と。なるほど、ツンデレとヤンデレはねじれの関係にあって、そもそも並べて較べる類のものではなさそうな気がしてきます。

が、ツンデレとヤンデレがどうしてユーザの支持を得ているのかということを考えると、この二つ、意外と似通っているのかもしれません。というのも、ツンデレというのはこの上なく《理解可能なもの》を指します。反動形成的な感情に由来するキャラクターが全てツンデレと見なされるわけではないわけです。

これは重要なポイントではないかと思います。ギャルゲーに関していえばプレイヤーの、アニメに関していえば視聴者の、その全員に「あ、ツンデレだ」と言わせるものがツンデレなのです。「オレはツンデレだと思う」「いや、違うと思う」と意見が分かれるようなツンデレは一般に言われるようなツンデレではないのです。

さて、この《理解可能なもの》はギャルゲーという文化の中でブレイクします。《理解可能》とは、言い換えるなら自分の内に収めてしまえるということ。つまり、美少女を内に取り込めるという快楽(=ギャルゲー的悦楽)を、もっともシンプルに提供できるのがツンデレであるということです。

「かっ、勘違いしないでよね!あんたのためにやったんじゃないんだからねっ!」なるセリフを額面通りに受け取るプレイヤーはいません。それは紛れもなく「自分=主人公のためにやったことで、つまり好きなんだ」と《理解可能》なわけです。そしてプレイヤーは、美少女を内に取り込めるということです。

さらに、ここで言う「内に取り込める」の主体は主人公でなく、自分=プレイヤー&視聴者にあります。「分かる」、もっと正確に言うと、「分かってあげる」という姿勢はゲーム&アニメの主人公でなく、プレイヤー&視聴者のものです。行動(ツン)の主体はヒロインであり-自分から積極的に受け入れられるという美少女に直接的に関われる(主人公キャラクターというマージンを必要としない)構造は見逃すべきでない特徴だと思います。

一つの結論として、ツンデレは《理解可能》性でもってプレイヤー&視聴者に直接的に働きかけることが出来る、ということです。

普段他の人には見せない一面を自分=主人公にだけに見せる、という独占の興奮が、内に取り込むというギャルゲー的悦楽をさらに刺激するという指摘については、ここではさらりと触れるだけにしておきます。本筋と関係ないので。

ツンデレとヤンデレの《理解可能》性

で、話はヤンデレへ。ツンデレは「ツンツンしちゃっていても、本当は自分=主人公のことが好きなんだ」と《理解可能》であることがポイントであると上述しました。それと同様に、ヤンデレは「このヤンだ行動は全て自分=主人公を愛しているからなんだな」と《理解可能》であることが、重要であるように思えます。もし、それが《理解不可能》である場合を考えてみると、それはただの狂人、凶悪犯罪者です。

つまり、「はいはい、分かってるよ」がツンデレのエッセンスであるように、分かっているということがヤンデレのコアにあるということです。

《理解可能》性、言い換えると、プレイヤー&視聴者を主体として、分かる=受用できる=内に取り込めるがツンデレ、ヤンデレに共通する特徴であるということですが、しかしヤンデレは同時に《理解不可能》な側面(言い換えると《予測不可能》)を、確実に持ち合わせています。急に包丁や斧や鉈を振り回し始めるのです。

結局ヤンデレって文化は理解可能と理解不可能の交差点上にあると思う。未来日記の由乃は信じられる部分と未知数な部分のバランスがすごくいい。 http://t.co/FNpwZWqm

これは自分自身のツイートですが、やっとここまで来ました。実はここまでが前振りです(このセリフ、久しぶりに使った)。

ヤンデレの《理解不可能》は、恐怖としてプレイヤー&視聴者に降りかかります。そして、この恐怖の与え方は、ゾンビ映画に酷似していると僕は考えています。

ヤンデレ=ツンデレ+ゾンビ映画?

ゾンビ映画って、どうしてゾンビがわれわれを襲うのか、が非常に軽視される傾向にあります。軽視というか、意図的に除外しているような感じ。なぜか沸いて出たゾンビが、なぜか人々を襲うという《理解不可能》な恐怖が描かれます。

この効果は、登場人物に感情移入出来ようが出来なかろうが、無条件に視聴者に恐怖を伝達することです。《理解不可能》という恐怖は、あらゆる人に平たく襲いかかるのです。

さて、これって上で述べたツンデレの功績と同じです。つまり、ツンデレの《理解可能》が主人公キャラクターを介さずに視聴者に働きかけるように、ゾンビ映画の《理解不可能》もまた、キャラクターの仲介なしに視聴者に恐怖をもたらしているのです。

ふむふむ、だいぶ見通しがよくなってきたでしょう。降って沸いたようなヤンデレのヤンだ行動は、ゾンビ映画の《理解不可能》と同じように、視聴者にダイレクトに攻撃をしかけるのです!

ということで、ヤンデレ一般論としては、「《理解可能》《理解不可能》の両面から視聴者にメタ攻撃を行える」が最大の強みであると結論づけます。

B級

こう考えたら、ヤンデレってキャラクターがもの凄いもののように思えてきます。が、決してメジャーではない。その理由は、残念ながらヤンデレの利点の副作用のようなものです。つまり、《理解不可能》=無条件に恐怖を与える仕組みは、なにせ「分からない」のだから、視聴者に恐怖しかもたらさないのです。

これは、ゾンビ映画が永遠にB級映画であり続けているのと、全く同じ理屈です。すごく怖いんだけど、一回「ぎゃーっ!」と言わせてそれでお終いなわけです。せっかく直接触れられるのに、ヤンデレは視聴者になにも与えない。

ゾンビ映画のどん詰まり感と、ヤンデレのどん詰まり感は全く同じもの。ならば、ヤンデレは未来永劫ニッチであり続けるのでしょうか?

我妻由乃の《短絡》

さて、最初に「我妻由乃は他のヤンデレとはどうも違うらしい」というようなことを書きました。ヤンデレのどん詰まりを打開する光明を、この由乃っちに見いだしてみます。

犯罪者心理に関するテストに「夫の葬儀の参列者に一目惚れした未亡人が、数日後自分の息子を殺害した。それはなぜか?」という有名な問いかけがあります。これに対する一般人の答えは「一目惚れした男性と再婚するのに息子が邪魔だから」なんだけど、凶悪犯罪者は「息子の葬儀で一目惚れの男性とまた会えるから」なのだとか。

八百屋のお七をベースにしたとされるこの逸話、なんかこう、頭をスコーンと叩かれたような気分になります。怖いとか、分からないとかじゃなくて、「そういう見方もあるのか」と、凶悪犯罪者氏の思考回路に感心してしまうのです。「確かに筋は通っているなあ」と。

こういう、自分が持ち合わせていない思考回路の《短絡》(論理的に誤りではないが、中間のステップで軽やかな跳躍が見られる)は、新鮮な驚きでもって迎え入れられます。つまり、「面白い」とされます。

我妻由乃はこういった新鮮な驚きを視聴者に与えているようです。少なくとも僕には、彼の「ユッキー」を愛する行動の全てが、《短絡》的に結論へと辿り着く、僕の頭の中にはない回路で得られた結論のように感じられます。このアニメにあるのは、彼女の発言、行動によって視聴者が驚かされるという仕組みです。そして、由乃がさんざん斧を振り回した後で、「ああ、なるほど」がやってくるわけです。

ヤンデレの《理解可能》と《理解不可能》に加えて、「ああ、なるほど」をもたらす《短絡》=新鮮な驚きが、我妻由乃の特徴と言えるでしょう。だから、上で引用したツイートに付け加えるならば、ヤンデレはやはり《理解可能》と《理解不可能》の交差点上にあるが、我妻由乃の場合、その交差点上から《今まで見えていなかったもの》=新鮮な驚きが目に入ってくる、という感じです。

例えば『ひぐらし』シリーズの竜宮レナ彼女の狂気について恋愛感情が関与していないのでヤンデレとは見なされないべきだ、という指摘は多くあり、僕としてもそれに同意しますが、ここでは一般的なヤンデレの代表格として扱わせていただきます。は、こういう《短絡》で視聴者を驚かせはしません。彼女は僕の知る限り最もゾンビ映画的なヤンデレです。雛見沢という場が《理解不可能なもの》の力場として作用していますが、それはゾンビ映画における「なぜゾンビが発生したのか」に対する免罪符のようなものです。

あるいは『School Days』の桂言葉は、彼女の「ブチギレ」に驚かされこそしたものの、嫉妬や独占欲を内包する恋愛感情が負の方向に向いただけ(残念ながら、《それは既に知っている》のです)で、僕に《今まで見えていなかったもの》をもたらしはしませんでした。彼女をひと言で表現すると「崩れる」で、あのアニメはどんどん感性を崩壊させる様を見て恐怖する類のものであると考えています。

もっとソフトなヤンデレ(桂言葉に類するが、もうちょっと穏やかな人種;人より独占欲や嫉妬心が強い女の子)の場合、ツンデレ的な《理解可能》がより強く作用し、また、美少女キャラクターに所有されるという、ギャルゲー的悦楽の反転がポイントになってきそうですが、ここで言うヤンデレは、身震いするほどの恐怖をプレイヤー&視聴者に与えるキャラクターとしていますので、これを除きます。

さて、我妻由乃というニューヒロインによって(原作ファンからすればニューではないのでしょうが)、僕の中でヤンデレに関して光明が見えてきた気がします。すなわち、ヤンデレの基本として《理解可能》+《理解不可能》があり、そこに、そのどちらでもない《短絡》(予測は出来ないが後追いで理解は出来る)を加えると、見るものに《今まで見えていなかったもの》を見せることが出来る!

しかしこの希望は、その直後にある種の絶望に変換される運命にあります(QB的な)。

DEAD END

ようやく結論です。二転三転で起承転結なんてあったもんじゃないですが、ここでタイトルを思い出していただきます。「ヤンデレの確立はならない」です。

なぜなら、キャラクターが雛形=テンプレートだからです。キャラクターとして確立するというのは方法論が整えられ、大量生産されることを意味します。しかし、《今まで見えていなかったもの》を与える《短絡》がヤンデレに必要とされているならば、これほど大量生産に不向きな性質はありません。

ツンデレはツン+デレなキャラクター(金髪だったりツインテールだったりするとなおよい)を物語のどこかに置いておけば喜ばれます。僕も喜びます。でも、ヤンデレの場合《短絡》がなければ(少なくとも僕は)満足しないようなのです。

この生産性こそがツンデレ=マジョリティとヤンデレ=マイノリティの決定的な差異であり、もっと根本的な部分では、原理的に生産性が得られないヤンデレはキャラクターとして確立できないことを意味しています。

もちろん、全ての人が《短絡》を求めているわけではないはずで、これはあくまで僕個人としてのヤンデレのデッドエンドフラグに過ぎません。しかし、ヤンデレが囁かれ始めてずいぶん経ちますが、未だに市民権を獲得するに至らないヤンデレについて、その未来を我妻由乃の中に見つけたはずなのに、やはりその先は闇に閉ざされていたという絶望は、おそらく全てのヤンデレファンに分かってもらえることだと思います。

ゾンビ映画と同じく、永遠のB級としてニッチに生き続けるのが、唯一の道でしょうか。

いつかニュータイプが表れるのを期待して、ここら辺で終わらせていただきます。

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